六十六部と供養塔

大山の麓を歩くと、供養塔を見ます。六十六部とか六部と言われる人たちが建てたのだということも聞きます。わかり易い説明を見かけたので書き留めておきます。(参考文献:江戸時代 人づくり風土記31 鳥取。社団法人 農山漁村文化協会 1994年7月20日 第一刷発行。)
「9.信仰の別天地大山領――地蔵信仰で賑わった山 畠中 弘」
江戸時代前期、元禄年間 (1688〜1704)ごろ、日本国中の六十六ヶ国を回り、そこの国の有名な神社・寺院に法華経を書写して奉納する風習が流行しました。
納経して回る行者のことを六十六部、または六部と呼びました。これは、「鎌倉幕府を開いた源頼朝北条時政は、生まれて来るまでの、前の世には回国納経をした六十六部であり、その善い報いによって立派な人に生まれ変わったのである。」という信仰にもとづくものです。各国々の有名な寺として、伯耆国では大山寺があてられていました。大山寺集落内の、回国行者三千人宿施行塔と刻む記念塔 明和9年(1772年)(とやま旅館にあります。)や、大山町坊領道 廻国一千人供養塔(*1) 安永6年(1777)建立などがあります。
無料で宿泊または世話をした善行の記念碑と言うことです。大山寺であればこそ見られる江戸時代の文化遺産のひとつです。
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大山寺の別れ地蔵(大山道の、坊領道と尾高道が分かれる所にある、大きなお地蔵さんも、六十六部が作ったと言われています。

説明板には、頼朝地蔵とも呼ばれると書いてあります。
(*1)は、2009年7月16日の日記、「仁王堂から見える大山/廻国行者一千人供養塔」に写真を載せています。