豪円さん(2)・・・・・・・年表を作ってみました

大山寺、金山寺比叡山を復興させた豪円さん。すごい人です。
写真は、坊領、中津尾家にある、豪円堂。

豪円さんに関係のある事柄を抜き出して、年表を作ってみました。
(参考文献:大山寺の名僧 発行:角磐山大山寺  発行日:平成19年10月22日)
1536年(天文5年)大山山麓汗入郡(あせいごうり)寺内(てらうち)村農家に
          生まれたと伝えられる。4歳のころ、両親がなくなり、
          母の里、中津尾家に引き取られた。
          7歳になって、大山寺に引き取られ、小僧になって修行する。
          2年後、9歳になって南光院谷、金剛院で、剃髪(ていはつ)
          得度(とくど)を受けて、円智と名づけられる。
1559年(永禄2年)24才 円智 大山寺全山から選ばれて比叡山延暦寺
1560年(永禄3年)大山寺焼失・・・・毛利による大山寺焼き打ち
             尼子晴久 急死→義久
1566年(永禄9年)31才 円智比叡山で7年地福院の院主となる。
            毛利を説得し、大山寺の復興を頼む。毛利元就 大山寺 復興
            11月28日 尼子義久 月山冨田城明け渡し。
            大山寺は、尼子敗残兵に放火され、ほとんど廃墟となった
            元就は、孫の輝元とすばやく寺の復興を行う
1568年(永禄11年)33才。大山寺復興の手腕が本山に認められ、金山寺に派遣される。
           「備中 岡山 金山寺きんざんじ)・・・南北朝時代から天台宗の古刹。」
            60年ほど前の、1501年(文亀(ぶんき)元年)備前守護代理、金山城主、
            松田左近将監元賢(まつださこんしょうげんもとたか)が、
            天台宗から日蓮宗に改宗を迫り、焼き払った。
1571年(元亀2年) 織田信長 比叡山攻め、焼き打ち。 兵2万5千。
            このとき、円智は金山寺に居て一命をとり止めた。
1575年(天正3年) 宇喜田直家(うきたなおいえ)金山寺再興し、円智に寺領3千石与える。
1581年(天正9年) 鳥取城攻め
1582年(天正10年)秀吉が備中高松城水攻め。 兵3万。
            円智47才、雨乞いの祈祷をする。秀吉本陣、立田山。
            季節は雨季。祈祷が成功。→以後、円智は、秀吉の庇護を受ける。
            秀吉、毛利と和睦。
            この年、9月 毛利輝元 大山寺を修復し、3千石を寄進
             円智、正親町(おおぎまち)天皇比叡山再興の勅許。
            比叡山復興諸国勧進。秀吉の協力。
1583年 (天正11年) 坂本山王七社、日吉山王大宮権現 再建に着手
1584年(天正12年)秀吉、家康へ、山門復興を願い出 
            根本中堂 戒壇堂 浄土院 伝教大師堂 完成
1589年(天正17年)比叡山焼打ち後、18年ぶり復興 比叡山再興ほとんど終了
1590年(天正18年)大山寺の速やかな復興のため大山寺へもどる
1594年(文禄3年) 西楽院で 執務・・・・大山寺の主管となる
1597年(慶長2年)秀吉の亡くなる年、大山寺領3千石朱印状もらう
1600年(慶長5年)中村一族が伯耆の押さえとして移封された。
           城主中村一学一忠は10才の幼君。家老、横田内膳正村詮(よこたないぜんのしょうむらあきら)は、
           検地を厳しくし、大山寺領を削り取るなど、大山寺と米子城の確執は広がる。
           円智、幕府に寺領安堵の請願書送る。
1603年(慶長8年)叡山の正覚院と宝菩提院を兼任→叡山の高層の列に並ぶ。円智→豪円と称す
 11月、家老、横田内膳暗殺。城内二分の戦い。横田一族滅亡。
1605年(慶長10年)11月叡山高僧、豪円僧正 誕生
1609年(慶長14年)米子城主 中村一忠(松平伯耆守忠一)、21歳変死。子が無く、中村家断絶。

1610年(慶長15年)4月、大山寺3千石朱印状もらう
1611年(慶長16年)6月5日  76才 備前岡山にある金山寺きんざんじ)にて死去