豪円さん(3)・・・・・・豪円さん没後の大山寺

豪円さんは、慶長16年(1611)6月5日、76才でなくなりました。その後、比叡山から「学頭」が任命され、「大山座主(だいせんざす)」として、西楽院を本坊として政務をとりました。初代学頭 豪円(ごうえん)から、久運(きゅううん)、天海(てんかい)、胤海(いんかい)、公侃(こうかん)、最純(さいじゅん)、常然(じょうぜん)、実興(じっこう)と、宝永7年(1710)まで八代続きました。それ以後は、滋賀法親王(しがほっしんのう)(坂本滋賀院・日光法親王の引退所)の支配となり、大山の権勢は上がり、一種の治外法権をなしたそうです。
二代目から八代までの学頭の墓は、世代墓と呼ばれ、豪円山へ登る道の途中にあります。
かなり離れた、中の原側から撮った写真ですが、松の木の下に、名前を刻んだ墓が建ててあります。
大山寺の周辺、桝水原、中の原、赤松、佐摩などの草原で行われていた牛馬の取引量も増えてきたため、享保11年(1726)、時の山奉行、吉川右平田により組織化され、本坊西楽院管理ののもと、大山寺境内で、牛馬市が行われるようになります。
豪円さんが小さい頃修行した、金剛院は、大山寺橋を渡って車道に沿って進み、大山夏山登山道入り口にあります。大山頂上に向かって左で、蓮浄院跡の下側にあたります。