備中高松城跡と金山寺(きんざんじ)

2011年11月20日、備中高松城跡と金山寺きんざんじ)へ、大山町ガイドボランティアの会の研修で行ってきました。そこは、大山寺中興の祖、豪円僧正のゆかりの地です。
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研修テキストから。
備中高松城の水攻めと豪円僧正
 羽柴秀吉は、信長の命により毛利征伐のため備中高松城を囲んだ。守将清水長左衛門宗治は、毛利の忠臣で徹底抗戦した。攻めあぐねた秀吉は、軍師黒田官兵衛の進言に基づき約3キロの堤防を築き足守川の水を引き入れ水攻めとした。しかし水が少なく宇喜田忠家は、円智和尚を招き雨乞いの祈祷をしたと伝えられている。
 円智和尚は秀吉の本陣、立田山にて雨乞いの祈祷を行い雨が降ったと言われている。この戦いの中、天正十年(1582年)六月二日本能寺の変織田信長明智光秀に殺された。秀吉は、清水宗治切腹と引き換えに毛利と和睦し、中国路大返しで天下人へと進むこととなった。守将 清水宗治は、水上の船で「浮世をば いまこそ渡れ 武士の名を 高松の苔に残して」と辞世を残して切腹したと伝えている。
注)円智:豪円と名乗る前の名前
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写真は、備中高松城跡。本丸付近から、写真中央の資料館に向かっています。広いハス池があります。高松城は深田や沼の中に囲まれた平城です。

下の写真は雨乞い祈祷をしたと言われる、立田山。ガイドの方に聞くと、立田山という呼び方の山はなく、山の向うに立田と呼ばれる地があるので、小高い山が立田山だということでした。写真の左側に、最上稲荷山 大鳥居の一部が写っています。

金山寺きんざんじ)
岡山県北区金山寺(かなやまじ)にある。
円智和尚は、天正3年(1575)宇喜田直家の力を得て、金山寺を再興した。
下の写真は、山門(仁王門)。

山門を過ぎて本堂へ向かう。

下の写真は、修理中の護摩

本堂下から本堂を見ています。

本堂内の海老虹梁。桃山様式の絢爛さを伝えています。


本堂裏からさらに上ると、三重塔があります。