吉持地蔵

2010年10月8の日記に書きましたが、吉持地蔵は会見郡豪農、吉持家の寄進によるものです。四代目、甚右衛門が、大神山神社参道に地蔵尊を寄進して井手工事の完成を祈願したものです。時は、江戸時代中ごろ、今から300年ほど前の時代です。
井手とは、農業用水路のことです。難工事で、吉持家は10代に渡って尽力されました。
最後は、藩の役人であった、佐野と言う人が工事を担当したので、「佐野川用水路」として名前が残りました。

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以下、「メールマガジンとっとり雑学本舗」(鳥取県広報課)に詳しい解説がありました。
第710号(2009年04月10日)「とっとり豆知識」より
●佐野川用水路 吉持家十代の情熱
佐野川は、米子市、南部町、伯耆町にまたがる通称「長者原台地(ちょうじゃはらだいち)」に広がる水田を潤す、総延長約8キロメートルの用水路です。この用水路は伯耆町の中祖(なかぞ)地内を流れる日野川から取水し、日野川左岸の山ぎわを走り、伯耆町坂長(さかちょう)で分岐し、さらに米子市、南部町へと流れています。(・・・省略)
 そもそもこの佐野川は、江戸時代初期に地元(現在の南部町)の豪農であった吉持五郎左衛門(よしもちごろうざえもん)が、荒れ地だった長者原台地の開墾を決意したのが始まりです。当時の長者原は、「いもの葉にたまった露を集めて顔を洗う」とまで言われるくらい、水に苦労していました。開墾を進める途中で、五郎左衛門は亡くなりますが、「この仕事は吉持家、一家の大事業として代々受け継ぎ必ず完成させよ」と遺言したそうです。この後、二代目の吉持甚四郎(よしもちじんしろう)が日野川から取水する計画をたて、その後も歴代の吉持家が工事を進めました。途中、参勤交代等で鳥取藩の財政が苦しくなるなど、藩の許可はあっても援助は期待できない状況になります。そのため工事の中断、再開を繰り返しながらも歴代の吉持家が私財をなげうって工事を進めました。
 この地域は、あちこちに固い岩盤と断崖絶壁が立ちはだかり、まともな機械もない当時のことですから容易に工事は進みません。なかでも、日野川の取水口の工事は難工事で、度々崖崩れにあい、総延長280メートル のトンネル工事では石工ひとりが一日に三升(5.4リットル)の石くずしか掘り出せないような状況だったそうです。このような工事を人力のみで進めたことは、想像するだけで気が遠くなります。
 難工事の末、ついに十代目の吉持茂右衛門(よしもちもえもん)の代に、佐野川は完成します。初代五郎左衛門の決意から約250年もの月日を要しました。今は美しい水田が広がり、豊かな恵みをもたらしてくれる長者原台地ですが、この恵みは吉持家十代に渡る開墾にかける情熱があってこそのものなのです。
 ちなみに佐野川という名前は、完成時に工事を監督してした藩の役人佐野増蔵の名前から命名されました。佐野増蔵は吉持家の情熱に感じ入り、藩の事業として取組むよう尽力した人物で、この人も偉大な先人です。
 残念ながら川に吉持家の名前は残りませんでしたが、地元では「長者原」の長者は吉持家のことを指すと言われています。また、吉持家住宅は南部町田住(たすみ)にあり、その江戸時代に建てられた主屋は鳥取県指定文化財となっています。(・・・・省略)
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長者原は480haあるそうです。佐野川は、日野川から取水し、法勝寺川に合流します。吉持家の名前は、ここ大山で吉持地蔵として伝えられています。