大山牛馬市と大山寺収入

大山牛馬市で取引された牛馬は、大山山麓で飼育されていました。牛馬市には、牛馬が大山博労座近隣に集められたため、牛のえさになる草の供給や、牛馬を連れてきた人たちや売買の仲立ちを行う博労たちを泊める宿などの収入が、地元の人たちの経済を支えていました。
番所では、入場する牛馬1頭に1分、売買が成立すると1分の手数料を取っていました。
牛馬市で売買されていた牛馬の頭数は、明治14年には、8,610頭、明治17年には、約12,000頭の売買があったと言われています。江戸時代の売買頭数のデータはありませんが、仮に、年間2,000頭が売買されたとすると、入場料、手数料合計4,000分、1両が4分ですから、1,000両が大山寺の収入となります。(1両5万円〜10万円とすると、5千万円から1億円の収入になります。)
一方、大山寺は幕府から寺領3,000石を与えられていました。大山寺が半分、農民が半分取るとすると、大山寺は1,500石の米を得ることになります。
元禄期(1688〜1704年)米1石が銀40匁(もんめ)、銀60匁が1両として、1,500石の米は、1,000両に相当します。実際に売買された牛馬の頭数が、年間500頭としても、250両の収入になります。牛馬市は大きな収入源に違いはありません。
この収入は、大山寺の政庁であった西楽院の収入となり、天台宗総本山である比叡山に収められ、大山寺全体への寄与は少なかったようです。大山寺が天台宗の別格本山になったのは江戸時代になってからと聞いたことがあります。この牛馬市の収入が寄与しているのではないかと推測しています。
下の写真は、博労座の道路端にある、番所跡の案内板です。

下の写真は、大神山神社の下にあった、西楽院の跡地です。